何が欲しいか

　季節が移り変わる中で、置いてきたものを拾い上げたり、どうにもならない事実を仕舞い込んだり、整理できるものは整理して、そうじゃないものは据え置いた。ようやく普通の生活に憬れる様に、元の形に収まったのかなと、勘違いかもしれないし、錯覚だろうけれど、思えるようになった。
　生きて生きた半分を知っていた人と、もう会えなくなったのは寂しい。別れるのが辛かっただけではないが、葬式には行けなかった。晴れやかな日にも、あの人に会って見せたいと、一瞬、思って、かくかくする気持ちが不思議だった。
　ゆっくり、普通に戻って、それでも、忘れないように、整頓する。
　大人になれば、たぶん、綺麗にできるのだろうと、思っていたけれど、やはり、まだまだ難しい。
　嘘をたくさん作らないと、本当を覆い隠さないと、生きていくのに支障が出る。

　よく見ていてくれる先輩がいて、カメラを持っている時が、生き生きしていると思われるらしい。講義中も同じだと思う。知らないものを知りたい時が、一番、楽しい。空間を把握して、時間に追従して、未知に迫る。研究者の端くれと表現されたけれど、それが誇らしい。

　彼らの送った時間を少しでも自分のものにしたい。電気的な信号のやりとりが、どこまで得られるのか、わからないけれど、その価値を知っている。失われる前に。

花粉と黄砂と強風

　昨晩は風が強く、窓やドアに勢い良く吹き付けていた。ドアの隙間から砂と葉が入り込んで、玄関も外と同じくらいに思えた。花粉症でなければ、春が来るのが待ち遠しいのに。空気でわかる花粉の存在。
　春休みに入ってから、ハンコとサインのために時間が拘束されることが増えた。人の必要性が感じられない制度をいつまで持続させるつもりなのか。少しずつでも改変していこうとする動きが、コンパスの針を思い出させる。何にも手を付けず、与えられた仕事を与えられたように、無難に過ごすことを一番に願っている人々。彼らがこの制度を維持させている。そうやって、決められた期間、こんなことをしなくて済むようになるのをずっと祈っているみたいだ。結局、この仕事を終えたって、次に来る仕事に対しても同じスタンスなのだろう。変わりたくないのかもしれない。
　最近、自分が大人しくなったと感じることが多くなった。きっと、たくさんの人に会うようになったからだろうし、聞かないといけない話が増えたからだろう。もしかしたら、会う人が限られてきたからかもしれないし、話を聞かされなくなったからかもしれない。このまま、どんどん大人しくなって、それが積もって穏やかさに繋がる気がする。そうすれば、単純な振りをして複雑な振る舞いを見せる外側を気にしなくても良くなる。少なくとも、煩わしさからは逃避できる。
　プログラムされているんだなと感じるようになった。

忘れないでおけるか

　セメントとモルタルとコンクリートと・・・・そのうち、煉瓦から、何から、全部買ってきて、花壇でも作ってしまおうかと思うくらい。証明の続きや数学的な手法と物理学の理論の引用は、見ていて綺麗だなと感じるけれど、その感覚を持つことと、理解することとは別だ。それでも、やっぱり、綺麗だなと思う。
　ものを忘れることが増えた。以前は、忘れるような事は大事ではないと考えていたが、大事なことも忘れるようになったらしい。最近、ひどいなと思ったのは、レポートの締切を間違えたこと。提出した書類や申請用にサインした書類の存在を忘れることもある。確認したら、自分の字でサインがくっきり書いてあり、なんだか奇妙な感じがした。あんまり、大事なことじゃないのかもしれない。
　忘れると忘れたことさえ、自覚がないわけで、この不確かな感覚が続いていくのが、怖いようで、ある意味安定している気がして、多少の不安とそれを上回るもやもやした安心が、こうやって精神を守っているのだなと思った。
　思い出せないなら、まだ、ましかもしれない。少なくとも、忘れている自覚があるから。
　亡くなった人の思い出が、色濃く残るのはどうしてだろう。夏の日差しを浴びた肌と真っ白な歯のコントラストが、その笑顔を際立たせている。やや肌寒い、梅雨の晩、大きな皿でカレーライスを食べようとしている、スプーンを握った手、口へ運ぼうとする肘の角度。自分は、その時どんな顔で彼を見たか。最高に憎たらしく思って、睨みつけたのを覚えているけれど。その後、2か月も経たずに、居なくなってしまった。海と剣道が好きだったんじゃないかな、たぶん。葬式は地元で行われたと聞く。新幹線に乗ったのだろうか、もしかしたら、飛行機かもしれない。この頃になって、漸く、亡くなったのだという事を実感した。もう、彼は、角度とか、距離とか、数字とか、リストとか、見ないのだ。そういったことに、気が付いて、やっと、事実を受け止めた。